備忘録

マル激全アーカイブス視聴を目指して

#0007_010416_メモ・補足

#0007_2001年4月16日
談合がメディアをダメにする


・米中空中衝突事故
 中国側の戦闘機パイロットはトップガン、エースのような噂話が流れた
 
・米中の噂話
 コソボ紛争時に、アメリカのステルス戦闘機F117が撃ち落されて、
 セルビアに墜落した。中国はセルビアからその戦闘機を買い取って、
 中国大使館の地下に隠した。アメリカは大使館を攻撃したが、中国側が
 事前にそれを察知し、戦闘機を移動していた。アメリカは大使館への攻撃を
 誤爆とし、古い地図を持ち出して言い訳をした。
 なお、戦闘機のエンジンを解析すると、その周波数を特定して、ステルスでは
 なくなってしまうため、アメリカが鹵獲を恐れた。
 というのが通説。
 ハイテクウォーフェアの側面が強いのでは
 と思うが、実際のところはわからない

・米中の緊張状態は?
 クリントン政権時代は、戦略的パートナーとして、
 公的な空域内での哨戒活動でとどめていて、
 中国空域との境界まではそこまで近づかなかった、と言われている
 ブッシュ政権では、ぎりぎりまで近づいてデータ収集していた
 共和党は親台湾派なため、意識しているはずである
 ただし、本当のところは永田町の比ではなく、外交は分からない
 アメリカのような情報公開法がある国でさえ、ナショナルセキュリティとなると、
 25年間は情報が秘匿される。25年後に、学者が頑張って掘り起こしても、
 本当のところはちょっとしか出てこない。

 ただし、実際何が起こったかわからないにして、何が起こったことにしたか、
 というところを見ると、外交の流れが読めることがある

亀井静香総裁選出馬の意思表明の意図とは
 野中、森などの経世会的なるものが
 操り人形にできそうな人を、一本釣りしている。
 その動きを見て、亀井派を守るために、トップの亀井静香
 出馬の意思を表明した。トップが立候補すれば、その下からの
 立候補はできなくなるため

・日本の政治記者の特性
 日本の政局の本当のところは、議員と仲が良い、
 インサイダーな関係にならないと知りえない
 しかし、インサイダーな関係になってしまうと、
 その情報は記事に書くことができない

 海外でもインサイダーべったりや、
 独自に取材をして癒着無しというスタイルがあるが、
 最低限の情報へのアクセスは双方に認められている。
 日本では後者の側に、最低限のアクセスが保証されていない

再販制度の存続
 公正取引委員会再販制度の廃止を見送った
 理由は、廃止に向けた国民的合意がないため
 世論の98%が再販制度を望んでいる、という報道になっていた
 これは、メディアがその必要性しか報道していないから
 反対の意見も、同じスペース、時間を割いて報道すべき

・ジャーナリズムの客観性
 あるテーマを取り上げた瞬間に、絶対的な客観性はありえない
 あるポイントを決めたなら、穴を掘る
 左右から両方同じように掘り進める
 穴は多いほど、民主主義は強固となる
 掘った先にあったものを地上で公表し、その判断は視聴者に任せる
 ただし、曲がった掘り方だと、歪んでしまうので、例え統治権力でも許すな
 と、学生時代に教わってきた

 自民党を報じたら、民主党も報じろ、というのは、
 穴を掘るポイントまで指定するような介入で、
 議論の余地がないほど、話にならない

・日本のジャーナリズムの脆弱性
 ひとつの会社に属してしまうと、会社の指定した範囲内でしか、
 穴を掘れないし、外に穴を掘ろうという発想がない
 ジャーナリストトレーニングの機会がない
 日本のメディアでは、非常に情緒的な理由で、報道の方向が逆転する
 ある人物にバッシングが集中したかと思うと、それはやり過ぎ、と擁護に回る、
 あるいは、誰かが称賛されると、それはほめ過ぎだ、と振り子のように振れる

・喜怒哀楽と損得報道
 ジャーナリズムの基本として、
 喜怒哀楽と損得に依存してはならない
 本当に重要なことは、喜怒哀楽や損得と関係がない
 かわいそうな人物を中央に据えて、感情に訴えるような報道は
 ジャーナリズムとかけ離れる

・日本のジャーナリズム教育
 欧米的な意味で、職業ジャーナリストを
 育成するプログラムとして一番近いものは、
 全国紙やNHKで行われている、新入社員の地方への配属
 権力構造などがシンプルな場所で、毎日現場へ出て、
 毎日赤ペンで原稿を直される、というのを3~5年続けると、
 ものの見方、考え方、世の中の仕組みについて、素人から脱却する
 例えば、ある法案が通る、通らない、というときに、その背後にいる団体まで、
 考えが及ぶようになる。これは、単に、その団体を知っているというのではなく、
 自分の経験した地方の支局に当てはめて、取材を通して得た実感として
 リアリティをもって想像できるようになる
 なぜその議員がそういう投票をするのか、発言をするのかが理解できる
 その積み重ねが大事
 海外では、地方での修業が厳しい
 苦節十年でようやく中央に行けるかどうか
 腐っても、ワシントンにいる記者は一流
 海外では記者の流動性があるので、
 一度フリーランスになって出版し、大手に戻るということもある
 日本では、新聞の全国紙とNHKが、海外と近いが、
 テレビ局はジャーナリスト育成が全然ない
 いきなり中央へ配属されて、右往左往となる

・インスティチューションジャーナリズム
 日本の記者は、サラリーマン、企業人
 記者クラブなどの、談合、村社会がジャーナリズムに良くない
 日本では流動性がなく、朝日なら朝日でずっと
 テレビ局に入りたい人は「ジャーナリストになりたい」とは言わないほうが良い

・システムと人
 最終的な問題はシステムだが、システムを変えるのは人である。
 言い換えると、制度やシステムが変わったときに、耐えられるような
 人材の分布がないと、それを受け入れることができない
 人材をどう育成するか、質を変えていくか、と考えるとやはり教育が重要

有明海諫早湾の水門の開門
 利害衝突はもともとあったが、
 水門の開閉がフォーカスされてわかりにくくなっている
 諫早湾干拓によって発生した赤潮による養殖のりの不作が、
 きっかけとなっているが、のりの養殖自体が環境に悪い側面を持つ
 昔から、のりの養殖には強力な酸が使用され、漁業関係者内では
 問題視されてきた
 しかし、メディア報道は開門だけを取り上げて、
 養殖のり自体が持つ悪影響を報じようとしない
 養殖のりの業者が被害者で、行政との衝突をピックアップし、
 両側から掘ることをせずに、一方的に報道する
 
・メディア報道の問題点
 ひとつは、水門の開閉と汚泥の流出、流出したとして、どの程度の
 海洋生物に影響が出るのか、という科学的な視点が欠けていること
 もうひとつは、養殖のりを擁護する報道をしないと、情報源への
 取材がしにくくなる(養殖のり自体の悪影響を報道すると、のり業者が
 口をつぐんでしまう)、という事実上の利益共同体ができあがってしまうこと

・記者のクオリティ
 情報源にとって、取材に応じるもリスク、応じないもリスク、というときに、
 応じないリスクの方が大きい記者にならないといけない
 クオリティの高い記者が世論に反する記事を書く場合、
 反対の主張を慎重に調査してから書く
 普段の順風な記事よりも根拠を入念に調べた上で報道する
 そういう記者の記事は反対意見の人が見ても、頷けるような内容なっていて、
 例え反対の意見であっても、その信頼から取材に応じたほうが得だ、と
 思わせることができる
 仮に応じないことが、自分の反対意見の表明の機会がなくなる、ということになる
 (自分の反対意見も根拠をもって記事にしてくれる期待がある)
 
記者クラブ制度とは違った排斥システム
 最低限の情報源に対するアクセスビリティーが保証されていれば、
 そこから先の、ある種のプライベートな関係の中でのアクセスビリティー
 インサイダーであれば知りうること、インサイダーであるが故に書けないこと、
 が生じても、弊害は少ない。
 しかし、記者クラブとは違ったメカニズムで、記者の全員が当事者にとって、
 有利であろうが不利であろうが、最低限のことは書く、書かざるを得ない、
 それがマナーだ、ということで合意形成、タフネスの共有がなければ、
 最低限の情報が開示できない
 もし、記者がひとりだけ、養殖のりの悪影響を書けば、
 その記者は村八分になり、情報源から遠ざかって記事が書けなくなる
 日本では、他の記者が自分の取材を有利に進めるために、
 そういう記者の排斥を助長することもある、という
 
分断統治、ディバイドアンドルール
 利権構造の違う集団を2つ作って、利権のあるグループが
 自分の利権を保存される方向で、自分たちは自発的な
 行動しているつもりで、統治権力側が思う通りの行動をとる
 これは、統治権力側の意図的なシステム構築や規制強化なのか
 それとも、システムに内包されていて、結果的にコントロールされているのか
 歴史的な経緯を考えると意図的なシステム構築ではない
 昔の冷戦体制がきつい時代は、三鷹事件松川事件のように、
 いろいろなことが起きた。
 要するに、右対左の対立があった
 マスコミ、記者クラブも含めて、右に対しては左という、
 ある意味の利害を共有していたので、記者クラブの利権は
 統治権力の利権と必ずしも一致していなかった
 冷戦が終結して以降、記者クラブ制度は対抗する必要がなくなって、
 むしろ、権力と利害を共有するものに反転した
 いつの間にか、制度の廃止が既得権益の喪失を意味することなり、
 気づいた時にはやめられなくなっていた
 これが、今の状態ではないか

・今の同世代(40代前半)の官僚
 官僚、統治権力が記者クラブ制度を利用して、メディアを
 コントロールしようとしている、というのは確信犯かどうか、
 実際のところわからないが、
 昔だったら、官僚は無謬主義で聞く耳をも持たないが、
 政治家はもう少しマシで、、、といった話が一般的だったが、
 今は、官僚も多様性を持っていて、例えば留学して、
 スキル身に付けてスピンアウトして、NPOを作る、など
 いくつかのモデルも登場してきた

 昔ながらの守旧派、無自覚的に組織の利益に
 どっぷり浸かっている人は、記者クラブ制度の利用価値に無自覚かもしれない
 むしろ、組織に対しての帰属意識の低い若手の官僚は、
 自分たちが何によって守られているか、十分に知っているのでは


海南島事件
 2001年4月1日、午前8時55分(中国標準時)、
 海南島付近の南シナ海上空でアメリカと中国の軍用機が空中衝突した事件
 中国側の戦闘機が墜落、パイロットが行方不明になったほか、アメリカ側の
 電子偵察機も損傷して海南島に不時着し、パイロットは中国側に身柄を拘束された。
 この事件により、一時的に米中関係の軍事的緊張が高まることとなった。

諫早湾干拓事業 [イサハヤワンカンタクジギョウ]
 有明海内の諫早湾における干拓事業
 諫早湾はガタ土が次々と堆積する湾で、集中豪雨や台風が来る地域であり
 排水不良や諫早大水害など高潮・洪水が起きやすかった。そのため、
 対策として、干拓が繰り返されてきたが、???農林水産省による国営干拓事業
 を巡る論争を呼んだ
 1952年に長崎県知事が、平地を広げることと、食糧難を解決するために
 「長崎大干拓構想」として発案した
 諫早を流れる本明川は数年に1度の頻度で氾濫し、水害に悩まされていた
 1957年には500人以上が犠牲になる諫早大水害が起こっている
 諫早市内には水害を防ぐために多数の水門が備えられており、
 見張り役が立って水門の開け閉めをしていたが、危険を伴う作業であった
 1989年より「国営諫早湾干拓事業」が着工し、諫早湾奥に潮受け堤防が
 建設された。目的は、高潮、洪水、常時排水等に対する地域の防災機能
 強化と、かんがい用水が確保された優良農地の造成
 1997年4月、潮受け堤防の水門を閉じて、干拓の工事前の漁業補償として
 総額279.2億円が支払われた
 そのとき、各漁協の漁業権は消滅または一部放棄・制限された
 2000年冬に赤潮が発生し、有明海の養殖海苔が不作となると、
 この干拓事業との関連が疑われ、2002年に漁業者らが、
 堤防の閉め切りが不漁の原因であるとして、
 工事中止を求めて佐賀地方裁判所に提訴、工事中止の仮処分申請も行った
 2004年に佐賀地方裁判所は漁業被害との因果関係を一部認め、
 工事中止の仮処分も決定されたが、2005年の福岡高等裁判所判決では
 仮処分を取り消され、工事が再開された
 潮受け堤防の締め切りから約10年後、2007年11月に完工式が行われ、
 同年12月、潮受け堤防の上に全長8.5kmの諫早湾干拓堤防道路が開通した
 水門閉鎖により潮受け堤防内側の調整池は有明海から分離され淡水化された。
 堤防の締め切りにより、高潮の被害がなくなり、防災効果が示された
 水害も減り、以前は大雨のたびに水田は水没し家屋は床下浸水していたが、
 2018年7月の豪雨では、250ミリの降雨でも、大きな被害はなかった

三鷹事件 (1949年7月15日)
 東京都北多摩郡三鷹町(現在の三鷹市)と武蔵野市にまたがる
 日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件
 詳細は不明で、同時期に起きた下山事件松川事件と並ぶ
 国鉄三大ミステリー事件の一つとされている。
 連合国軍占領期1949年7月15日20時23分、
 国鉄三鷹電車区から無人の電車4両を含む7両編成の電車が暴走し、
 三鷹駅の下り1番線に進入した後、60km/h程のスピードで車止めに激突し、
 そのまま車止めを突き破って脱線転覆した。
 これにより、突っ込んだ線路脇の商店街などで、
 男性6名が車両の下敷きとなり即死、負傷者も20名出る大惨事となった。
 当時、日本の国政では日本共産党議席を伸ばしており、共産党員や
 その支持者が多かった国鉄は、共産主義化を警戒するGHQによって
 レッドパージの対象となっていたため、
 複数の共産党員の国鉄職員が逮捕された。
 捜査当局は、共産革命を狙う犯行として、国鉄労働組合
 日本共産党員10人と非共産党員の元運転士、竹内景助を逮捕した。
 そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、
 不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、
 竹内は、幾度も発言を求め、泣き叫びながら単独犯行であったことを主張した。
 1950年東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、竹内の単独犯行として
 往来危険電車転覆致死罪により無期懲役の判決を下した
 1951年東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、控訴審で竹内についてのみ
 検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、
 より重い死刑判決を言い渡した
 弁護人は無罪の主張とは別に、被告人の顔も見ぬまま死刑に変更することの
 非道も訴えて最高裁に上告したが、最高裁では口頭弁論が開かれないまま、
 1955年6月に死刑判決が確定した
 ところが、これが8対7の1票差であったため物議を醸し、
 以後の最高裁の死刑上告審理では口頭弁論を開くことが慣例となった
 竹内は無実を訴え続け、死刑判決後も文藝春秋誌に陰謀説を訴えるなど
 投稿をする。東京拘置所内で脳腫瘍に伴う激しい頭痛を訴えていたが、
 拘置所側は拘禁症状であるとしてこれを無視し、適切な治療等をせず、
 1967年1月に収監先の東京拘置所で脳腫瘍のため獄死した
 竹内の死後、国は遺族に国家賠償請求に基づき慰謝料を支払っている
 再審請求については、異議申立棄却に対する特別抗告が
 1968年に棄却された
 竹内は、再審請求補充書で
 「弁護士から、罪を認めても大した刑にならない、必ず近いうちに
 人民政府が樹立される、ひとりで罪を認めて他の共産党員を助ければ、
 あなたは英雄になると説得された」と主張している。また、竹内と面会した
 加賀乙彦は、竹内が「おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ
 信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用すると
 いわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。(略)
 けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです。」と語っていた
 と述べている

松川事件 (1949年8月17日)
 福島県日本国有鉄道東北本線で起きた列車往来妨害事件
 日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられる
 下山事件三鷹事件と並んで大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」の
 ひとつといわれており、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で
 全員が無罪となり、真犯人の特定・逮捕には至らず、未解決事件となった
 三鷹事件から約1か月後、1949年8月17日2時9分頃、
 福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)の東北本線
 松川駅-金谷川駅間を走行していた旅客列車が突如として脱線した。
 現場はカーブの入口で、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両、
 郵便車1両、客車2両も脱線した。
 この事故により、機関車の乗務員3人が死亡した。
 現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが
 緩められ、継ぎ目板が外されていることが確認された。
 さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、
 長さ25メートル、重さ925キロのレール1本が外され、
 ほとんどまっすぐなまま13mも移動されていた。
 周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナが
 それぞれ1本ずつ発見された。
 捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場労働組合
 国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行とみて捜査を行った。
 事件発生から24日後、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、
 松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件
 犯行を自供し、その自供に基づいて共犯者が検挙された。
 合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたが、
 無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことで、
 死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪で確定した。
 1950年12月、福島地裁による一審判決では、
 被告人20人全員が有罪(うち死刑5人)となった。
 1953年12月、仙台高裁による二審判決では、
 17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となった。
 しかし裁判が進むにつれ被告人らの無実が明らかになった。
 第一審・控訴審判決に対し、思想信条・階層を超えて多くの
 支援者が集結し、1,300名を超える「守る会」や大弁護団が結成された。
 主任弁護人であった弁護士の岡林辰雄は『赤旗』 1950年3月15日号に
 「主戦場は法廷の外」という論文を発表し、法廷ではデッチあげであることが
 毎日立証されているのに、新聞やラジオではまるで有罪が立証された
 かのような報道がなされている、ならばこちらも大衆の中へ入ることが大切だ、
 という趣旨の主張を展開した。
 この「主戦場は法廷の外」は松川裁判闘争のスローガンとなった。
 1959年8月、最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。
 1961年8月、仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決
 1963年9月、最高裁は検察側による再上告を棄却、
 被告人全員の無罪が確定した。
 判決当日、NHK最高裁前からテレビ中継を行い、報道特別番組
 『松川事件最高裁判決』として全国に放送した。
 無罪判決確定後に真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、
 1964年8月17日、汽車転覆等および同致死罪の公訴時効を迎えた。
 被告人たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、
 1970年8月に裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。

*無謬性の原則
 日本の政府や大企業の官僚組織で、ほとんど無意識のうちに前提と
 されているのが、「無謬(むびゅう)性の原則」である。
 「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、
 その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけない」
 という信念のこと
 たとえば、政府は財政再建に責任があるのだから、
 それが失敗したときに起きる「財政破綻後」を考えてはならない。
 というもの
 無謬:理論や判断にまちがいがないこと。※大辞林